日本の組織において、なぜどれほど優れた成果を上げる若手や優秀な社員であっても、欧米のように突き抜けた給与が得られないのか。あるいはなぜ、組織の頂点に立つ社長の給与倍率が、一般社員の数十倍程度という世界的に見て異例なほど低い水準に留まっているのか。 多くの議論はこれを「日本人の平準化を好む国民性」や「デフレによる原資不足」、あるいは「年功序列の残り香」として片付けようとする。しかし、本質はそこにはない。 この歪な給与体系の根本にあるのは、 「個人の責任(Accountability)と成果を徹底的に消去し、集団の中に希釈する」という日本型無責任体系のロジック である。 欧米における役員やトップ層の高給は、単なる能力の対価ではない。それは、ひとたび判断を誤れば即座に解任され、時には株主から個人賠償責任を追及されて個人の財産や社会的地位が一瞬で吹き飛ぶという「個人の破滅的リスク」に対するプレミアム(保険料)だ。高額な報酬は、逃げ場のない「個人の主語」で決定を下すことの裏返しなのである。 一方で、日本の組織における意思決定は真逆のプロセスをたどる。 いくら経営判断が裏目に出ようと、不祥事が発生しようと、その決定は「専務や常務、取締役会、そして現場の稟議」という合議制のスープの中に溶かし込まれる。追及が始まっても「責任の所在確認」という長時間の儀式を経て、責任は「当時の空気」へと空中分解する。社長が個人の財産を失って路頭に迷うことはなく、せいぜい数ヶ月の役員報酬返上や、相談役・顧問への「軟着陸」で手打ちとなる。 つまり、日本の経営層は「個人として破滅的な責任を負わない」という特権を得ている代わりに、リスクプレミアムとしての爆発的な高額報酬を請求する論理的拠点を失っているのだ。 そして、この「上が個人責任を取らない」という構造は、そっくりそのまま「下が個人の成果で稼ぐこと」を拒絶する刃となって現場へ跳ね返ってくる。 もし有能な社員に個人成果に見合った天文学的な給料を払う評価制度を導入すれば、組織には「それだけの報酬を得ている以上、結果が出なかった時の責任も個人で負え」というロジックが持ち込まれる。しかし、現場に個人責任を導入してしまえば、「なぜ現場だけが自己責任で、失敗した合議制の上層部は責任を取らないのか」という矛盾が噴出し、上層部の免責構造(無責任体系)そのものが...
日本の不祥事や重大な政策失策において、私たちがいつも目にする光景がある。連日のようにメディアで繰り広げられる「責任の所在」をめぐる議論と、果てしない原因究明の委員会だ。 年金記録の消失、感染症対策の迷走、大企業の不正会計——事態が発発するたびに「誰が判断したのか」「どこに責任があるのか」と激しい追及が始まる。しかし不思議なことに、この「責任の所在確認」には膨大な時間がかかり、最終的に誰がどんな個人的責任を取ったのかも曖昧なまま、気づけば嵐が去っている。 海外の独立調査や公聴会でも検証に時間はかかる。だが、西欧的な個人責任(Accountability)の思想において、その時間は「癌細胞である特定の意思決定者を追いつめ、切除する(焦点の絞り込み)」ために使われる。決断を下した主語を特定し、その個人に損害賠償や失職、法的な処罰という負債を清算させて決着をつけるのだ。 では、最終的にツケ(負債)を払わされるのが国民や末端の現場だと最初から決まっている日本で、なぜこれほどまでに時間をかけて「責任の所在」をこねくり回す必要があるのか。 理由は真逆だ。日本におけるこの「確認作業」は、真犯人を特定して罰するためのものではない。 関与者を無限に増やし、責任を全員で希釈して「誰も個人的な責任を取らなくて済む状態」を作り出すための安全な時間稼ぎ だからである。 もし問題が起きた直後に、「決定権を持っていた特定の上層部」が潔く自らの意思決定の失敗を認め、辞任や個人賠償に応じたとしよう。それは「決定者が責任を取った(負債を清算した)」ことになり、話はそこで終わる。 しかし、日本型組織のOSにおいて、それは絶対に避けなければならない事態だ。お上や組織のトップは「正当で過ちを犯さない存在」でなければならず、個人の失敗を認めれば組織の権威そのものが失墜してしまうからだ。 そこで始動するのが、「責任の所在確認」という名の時間稼ぎのプロセスである。 「当時の意思決定の背景を確認する」「前例との整合性を精査する」「関係部署の合意プロセスを検証する」——そうやって時間をかければかけるほど、承認印を押した幹部、稟議書を通した官僚、専門家会議、関係業者、政治家と、関与者のリストは数百人規模へ膨れしていく。 関与者が膨大になった瞬間、マジックが完成する。「特定の誰かの意思」は消滅し、「全員で決めた...