「パワハラ」という言葉が、実は2001年頃に日本で生まれた和製英語(造語)であることを知ったとき、胸の奥でひとつ、大きなパズルのピースが嵌まる音がした。 英語圏で同様の事象を語るなら、「Workplace Bullying(職場でのいじめ)」や「Abuse of Authority(権力の乱用)」と呼ぶのが一般的だ。ではなぜ、日本では「パワー(権力・立場)」と「ハラスメント」を結びつけたこの言葉が、これほど急速に市民権を得て、社会問題の代名詞となったのだろうか。 先日、日本の組織に固有な「稟議(りんぎ)書」による意思決定システムについての論考を書いた。 複数の人間が判子を重ね、下からの提案を上が「承認」する形で進むスタンプリレー。それは一見、調和の取れた民主的な合意形成に見えて、その実態は「誰が本当の引き金を引いたのか」を分からなくするシステム——例えるなら、死刑執行現場で誰が本物の電流を流したか隠すための「匿名の押しボタン」である。 欧米のように、トップが自らのサインを刻んだ「指示書(Directive)」を発行し、その意思決定のリスクと責任を100%引き受ける仕組みとは対極にある。日本では「指示者」「起案者」「承認者」が分断され、責任は空気の中に雲散霧消していく。 この無責任化の稟議システムを分析していて、ハッと気がついた。 「パワハラ」という現象は、この日本型稟議システムと恐ろしいほど相性が良い、構造的な双子なのではないか 、と。 責任が曖昧な組織では、業務の範囲(ジョブ型契約)もまた曖昧になる。「どこまでが業務で、どこからが過剰な指導なのか」の境界線が最初から引かれていない。 そして、明確な個人的責任を負って部下に正当な指示を出せない上司は、権限(Authority)ではなく、感情的な「圧(Power)」で部下を動かそうとする。 さらに恐ろしいのは、周囲の反応だ。稟議スタンプリレーと同じで、職場でパワハラが行われていても、周りの人間は「上があの態度だから」「組織の伝統だから」と、見て見ぬ振りを決め込む。全員で判子を押し合うように、 全員で静かに「暴力を容認する意思決定」に加担し、責任を分散させている のだ。 もし、すべての仕事が「誰の責任で指示されたか」明確にサインされ、業務範囲が定義されていれば、理不尽な感情的圧力は即座に「契約違反」「不法行為」...
死刑の執行現場には、複数の押しボタンが存在する。複数の執行官が同時にそれらのボタンを押すが、実際に刑を執行する電流が流れるのは、その中のひとつだけだ。どのボタンが「本物」で、誰の手が命を奪ったのかは、当人たちにも分からない仕組みになっている。 このシステムの目的は明白だ。「自分が人を殺した」という決定的な罪悪感や精神的負荷を分散し、匿名化することにある。個人を守るための、人道的な配慮と言えるだろう。 しかし、もしこの「誰も責任を負わないシステム」が、国家の舵取りや巨大な組織の意思決定の根底に組み込まれていたらどうなるだろうか。 欧米型の組織における意思決定は、この死刑ボタンとは対極にある。欧米では、たとえ部下がどれほど緻密な企画書や提案(レコメンデーション)を作成して上げてこようと、それを実行に移す瞬間、トップ(大統領やCEO)が自らのサインを刻んだ「指示書(Directive)」へと形を変える。 どんなに現場の発案であっても、サインをした瞬間に「これは私が命じたことだ」と100%上書きされる。失敗したときに「部下が言ってきたから」という言い訳は通用しない。株主訴訟や議会公聴会で問われるのは、サインをしたその人自身の責任であり、逃げ場のない「個人の責任(Accountability)」が最初から明確に定義されている。 一方で、日本の組織における「稟議(りんぎ)」や「合議」のシステムを眺めていると、まさに冒頭の「死刑ボタン」の光景が重なって見える。 下層の担当者が上層の「空気」や意向を察知し、注意深く言葉を選んで書類を書き起こす。その書類は課長、部長、役員と、階層を駆け上がりながら次々とスタンプリレーのように判子を集めていく。誰もが「下から上がってきた提案を確認しただけだ」と考え、誰もが「上が最終承認したのだから問題ない」と信じ込む。 決定の瞬間、そこには何十もの判子が並んでいる。だが、死刑のボタンと同じで、 誰が本当の引き金を引いたのかは誰にも分からない。 この日本型構造がもたらす最大の恐ろしさは、「正気のブレーキ」が完全に破壊される点にある。 欧米のように「自分の名前で指示を出す」システムでは、個人的なリスクが強烈なブレーキとして機能する。「失敗したら自分が追放される」「歴史に悪名を残す」という恐怖があるからこそ、指導者は土壇場で思いとどまり、理性を働かせる。 と...