政権の背景
あなたはタイの女性初の首相、インラック・シナワット(ยิ่งลักษณ์ ชินวัตร)氏をご存じだろうか。タクシン元首相の妹であり、2011年~2014年まで政権を務めた。最後は2014年5月、国家安全保障会議人事への不当介入を理由に憲法裁判所がインラック氏を失職させ、その後軍事クーデターが発生し政権は崩壊した。ポピュリズムによる分断のはざまで揺れた政権と表現される。
彼女はコメ担保融資制度を実行し、農家から市場価格より高値でコメを買い上げる政策を展開した。農村部の支持を固める狙いがあったが、巨額の財政赤字を生み、後に汚職や不正の温床と批判された。
世界初の最低賃金社会実験
しかし筆者が注目したいのは、インラック政権が実行した世界初の大規模な最低賃金引き上げ政策である。
- 2012年:日額176バーツ → 245バーツへ大幅引き上げ(約40%増)
- 2013年:全国一律300バーツを導入(約22%増)
タイ史上初めて「地域差をなくした最低賃金」が実現した。
導入前はインフレ、雇用喪失、企業倒産(企業の支払い能力を超える負担)が懸念されたが、十分なアナウンス効果により、導入前の予想ほど大きな混乱はなくスムーズに達成された。衣類縫製産業に代表される労働集約型産業は海外移転する時間が与えられた。
その結果、GDP成長も最低賃金引き上げによる消費喚起で押し上げられた(2012年成長率 +7.2%)。この政策は、低賃金依存の輸出主導型経済から、内需拡大型経済への転換への足掛かりとなった。
政治的挫折と経済的成果
その後は軍部介入によるクーデターによりGDP成長は鈍化(2014年成長率 +0.8%)した。世界初の政府主導による最低賃金引上げ政策という社会実験は終わりを迎えたかに見えた。
しかし、この実験は世界各国へ引き継がれたのだ。
世界への伝播
- ベトナム
2010年代半ば以降、毎年10%前後の最低賃金引き上げを実施。ILOや世界銀行は「雇用への大きな悪影響はなく、むしろ労働生産性を押し上げた」と評価。タイの事例を参照し「低賃金依存からの脱却」を意識した。
- 韓国(文在寅政権、2018年〜)
2018年に最低賃金を前年比16.4%引き上げ(史上最大)。零細企業の負担増が問題視されたが、OECDは「格差縮小に寄与」と報告。韓国メディアでも「タイの大胆な引き上げ」を参考にしたと報じられた。
- 日本
2010年代後半から「最低賃金年3%引き上げ」を政府目標に設定。2023年には全国平均で1004円を突破。内閣府や日銀の分析では「中小企業の賃上げを波及させ、消費を下支え」と評価。タイの「内需拡大型経済への転換」と同じ方向性を持つ。
ジニ係数が語る成果
世界の国々は、タイの社会実験の「何」を見ていたのか。恐らくジニ係数だ。
- 2010年:再分配前 0.45 → 再分配後 0.39
- 2013年:再分配前 0.42 → 再分配後 0.37
- 2019年:再分配前 0.40 → 再分配後 0.36
最低賃金引き上げ前の2010年のジニ係数は0.39(再分配後)から、引き上げ後の2013年には0.37(再分配後)へと急低下した。コロナ前の2019年ではさらに低下している。
すべてが最低賃金の効果とは言えないが、前後で大きく変動していることを鑑みれば、その影響は多大であったといえるだろう。筆者が調べた限り、これほど短期間にジニ係数が平和裏に低下した例はほとんどない。
結論 ― 政治は潰えても、政策は生き残る
日本でも世界でもインラック氏の政策評価は高くない。だが、最低賃金政策という部分的な目標の達成と、その世界に与えた影響を鑑みれば、彼女は政治史に名を刻むに値する。
タイでは潰えたが、世界で生き残った実験。
それがインラック政権の最低賃金政策の本質である。
関連テーマ:
第三十一話:また、首相交代⁉ー短命政権になりやすい政治構造ー
制度は似ているのに、日本は短命政権ばかり。原因は、政党が理念でなく“選挙互助会”だから!派閥、官僚依存、そして数合わせの政治構造に迫る!
参考文献:
タイ国内政策・インラック政権関連
- 井上荘太朗「タイのコメ政策の影響と混乱」『農林水産政策研究所レビュー』No.58, 2014年 農林水産省 PDF
→ コメ担保融資制度の仕組みと財政赤字、政治的影響を詳しく分析。 - 相沢伸広・船津鶴代「2012年のタイ 憲法改正をめぐる対立と市場介入型の経済政策」『アジア動向年報』2013年J-STAGE
最低賃金制度・国際比較
- 山田久「最低賃金の決定メカニズムの課題と今後の在り方」『日本労働研究雑誌』2024年10月号JIL PDF
格差・ジニ係数データ
- World Bank, Poverty and Inequality Platform (PIP)
→ タイのジニ係数(再分配前・後)の公式データ。
World Bank PIP

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