私は司法に詳しくない。しかし、ふと疑問に思った事案を思い出した。
それが「人質司法」と「冤罪」だ。
人質司法とは、日本の刑事司法の中核にある“身柄拘束を使って自白を引き出す仕組み”のこと。世界的に見ても極めて異常で、国際的な批判の中心になっている。この問題を考えるきっかけになったのが、カルロス・ゴーン事件と大川原化工機冤罪事件である。
どちらの事件でも、共通して使われた論理が「証拠隠滅の恐れがあるため保釈できない」だった。
人質司法と冤罪
●カルロス・ゴーン事件
日産の元会長カルロス・ゴーン氏が、報酬の過少記載などの容疑で逮捕された事件。 否認したため長期拘留され、“人質司法”が国際的に批判された。保釈後にレバノンへ逃亡し、世界的ニュースになった。
●大川原化工機冤罪事件
噴霧乾燥機の“不正輸出”容疑で中小企業の役員3人が逮捕されたが、実は捜査の前提が誤りで完全な冤罪だった事件。否認したため保釈されず、拘留中に胃がん治療が遅れ、1人が死亡した。
両事件とも、「認めれば出られる、否認すれば出られない」という構造が明確だった。これは日本の刑事司法の最大の問題点で、国連や欧米メディアが批判している“人質司法”そのものだ。 つまり、日本では一度逮捕拘留されてしまえば、罪を犯していようがいまいが関係なく、 認めなければ前に進まない構造になっている。その結果、罪を犯していない人も認めざるを得ず、冤罪につながる。
ここで特に気になるのが、「証拠隠滅の恐れ」を理由に保釈を認めないという説明の矛盾だ。本来、逮捕とは“犯罪を裏付ける証拠がすでに十分に揃っている”ことが前提のはずである。にもかかわらず、保釈拒否の理由として「証拠隠滅の恐れ」を持ち出すのは、“決定的な証拠を押さえられていないまま逮捕・拘留している”と自ら認めているようなもので、制度として極めて不自然だ。
では、この不自然さはどこから生まれるのか。 まず、自白が証拠として海外よりも異常に高い価値を持つことに起因する。本来であれば、決定的な証拠につながる自白であれば手掛かりとして価値があるが、それ以外の自白に本来の意味はない。しかし、日本では、時に物証より自白のほうが決定打になる。以下はその典型例である。
免田事件(日本初の死刑再審無罪)
財田川事件(死刑確定 → 再審無罪)
松山事件(死刑確定 → 再審無罪)
東住吉事件(2016年再審無罪)
小野悦男事件(首都圏連続女性殺人事件)
これらはいずれも、自白と物証が矛盾していたにもかかわらず、自白が“決定的証拠”として扱われた事件である。
この現象を説明するためには、いくつかの前提が必要になる。
◆前提① 自白偏重
戦後の日本は、圧倒的なリソース不足の中で捜査を行う必要があった。その結果、「自白さえ取れれば捜査が完了する」という、極めて強力なコスト削減手法が制度化された。これは合理性ではなく、構造的必然だった。こうして、自白が“証拠の王様”として扱われる文化が形成された。
◆前提② 官僚制の自己性善説
戦前の官僚は権限も責任も大きかったが、戦後はGHQにより権限だけが残り、責任が削除された。その結果、「官僚は間違えない」という性善説ベースの制度が形成された。 捜査機関もその文化圏に属しており、「捜査機関は正しい」という前提が制度の深層に埋め込まれた。
◆前提③ 裁判所の追認構造
裁判所は本来、捜査機関を監視する立場だが、実際には同じ官僚文化の中に組み込まれている。そのため、捜査機関の判断を追認する構造が生まれ、チェック機能が働かない。令状はほぼ自動的に出され、保釈は否認事件ではほぼ認められず、再審は極めて困難になる。
この三つの前提が揃うことで、 「自白偏重 → 人質司法 → 冤罪」という構造が必然的に成立する。
以前投稿したAIエッセー:日本の特殊性ー新卒一括採用と就職氷河期世代ーでも述べたように、海外向けの大戦の清算は終わったが、国内向けの清算は終わっていない。その未清算の構造が、司法にも深く残っているのである。
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