以前のエッセー「中間業者の多い国は労働生産性は低くなるか?」で、私は
「日本は価値を評価できない社会なのではないか」
という仮説を提示した。当時はまだ、その原因を十分に説明できていなかった。しかし、この仮説は驚くほど多くの現象を説明できる“鍵”になっていることが、歴史的背景と戦後日本の制度設計を改めて検討する中で見えてきた。
特に、以前の投稿「日本特有の現象をうまく説明する方法」で述べたように、戦後の日本は敗戦処理の巨大さゆえに性悪説ベースの制度を採用できず、性善説ベースの制度を社会仕様として組み込んだ。
つまり、「人々が善意で動くこと」を前提にしないと回らない社会である。
この性善説仕様は、実は現代の企業文化や現場の運用にも深く埋め込まれている。たとえば工場の手順書。海外では手順書通りに作業することが前提であり、完成した手順書が存在するのは当然だ。しかし日本では、驚くほど“完全な手順書”が存在しない。私が勤めた企業にも、そんなものはなかった。
なぜか。
これは、企業が制度として手順書を整備する前に、現場の善意と暗黙知によって仕事が回ってしまったからだと考えると腑に落ちる。そして一度回り始めた仕組みは、たとえ手順書がなくても困らない。だから手順書を整備しても評価されない。上も下もそれを知っている。結果として、手順書や仕組みそのものの価値が低く見積もられ、改善しても評価されない構造が固定化する。
こう考えると、私が以前から抱いていた違和感も簡単に説明できる。ある企業に勤めていた時、たまたま私が「これはすごい」と思った特許を書いた技術者と仕事をしたことがある。その人は研究所出身で、本来なら工場勤めをするような人ではなかった。しかし、彼は工場に配置されていた。
なぜ価値を創造する人が、価値を生み出さない部署に回されるのか。
性善説OSの社会では、既存の暗黙知で回っている仕組みを壊す行為は「価値」ではなく「混乱」として扱われる。価値を測れない社会では、改善や革新は“評価対象”ではなく“リスク”になる。そのため、価値を創造する人ほど政治的に排除されやすい。既定路線を歩いてきた人にとって、革新は脅威であり、邪魔であり、排除対象になる。
もし日本が価値を正しく測れる社会であれば、そんな配置転換は起こらないはずだ。しかし、価値が低く見積もられやすい社会では、価値創造者はむしろ排除される。
私はエンジニアなので、他の職種でどのように善意の搾取が行われているかは断言できない。しかし、エンジニアには常に善意を差し出すことが要求される。善意が前提の社会では、善意で行われていた行為がいつの間にか“当然のこと”として制度化される。こうして善意は搾取を経て義務へと変質し、バブル崩壊後にはブラック企業という形で露出した。
さらに、この仮説は「働かないおじさん」や、近年話題の「静かなる退職」「セミリタイヤ志向」も説明できる。
すでに善意を搾り取られた中高年は、手順書や仕組みのない仕事に対応できなくなり、結果として“働かないおじさん”という状態に至る。どれだけ善意を示しても評価されないことを理解し、搾取されない状態に移行するのが静かなる退職。搾取されないように会社から距離を取るのがセミリタイヤ志向。
いずれも、「価値を測れない社会で善意を搾取され続けた結果、個人が自衛に向かう」という同じ構造から生まれている。
これらはすべて、大戦の清算が不十分なまま性善説仕様を採用した日本社会の、避けがたい帰結として説明できる。
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