屋台という都市の冗長性
バンコクの朝の空気は、甘いジャスミンライスと香ばしい豚肉の炙られる匂いで満ちている。給与の決して高くはない現地の人々が、路上の屋台で一皿数十バーツの朝食を買い、プラスチックの椅子に腰掛けて世間話を交わしながら腹を満たす。タイや台湾などのアジアの街を歩くたび、いつもどこか不思議な解放感を覚える。ここでは、三食すべてを外食や買ってきた惣菜で済ませても、給料の大半が食費に消えることなどない。
ひるがえって、日本の日常はどうだろう。スーパーで食材を吟味し、家に持ち帰って調理し、食器を洗う。あるいは、少し疲れ切った足取りでコンビニにより、整然と並んだお弁当を買う。この違いは一体どこから来るのだろうか。
「自炊より屋台の方が安い」というアジアの都市構造は、単なる食文化の違いにとどまらない。日本が高度経済成長期を経て選択したのは、公衆衛生の徹底と厳格な行政規制、そして「家でご飯を作り、家族で食べる」という近代的な内食文化だった。街角の路上占有を排し、冷熱物流(コールドチェーン)を発達させ、整然とした都市秩序を手に入れた。しかしその代償として、私たちは「街頭で他者とゆるやかに繋がる空間」を失っていった。
タイの屋台やローカル食堂のテーブルは、いわば都市の「余白(冗長性)」だ。そこに身を置くことで、人は単身であっても孤独にならず、安いコストで生存を担保される。しかしそれだけではない。屋台という営みは、固定費を極限まで抑え、需要の変動に即座に対応できる。台風で店が潰れても、翌日には別の場所で再開できる。大規模な商業施設や複雑な物流網とは異なり、個々の屋台が独立して機能するこの構造は、まさに「分散型の安全装置」なのだ。対照的に、日本の「コールドチェーン+スーパー+自炊」というシステムは、どこか一箇所――電力や物流、給水――に障害が生じれば、全体が連鎖的に麻痺する「カスケード障害」のリスクを抱えている。完璧に最適化されたシステムは、思いがけない場所で新しい不便と息苦しさを生み出し始める。
この構造は、バブル崩壊後の日本経済の歩みと見事に重なり合う。
かつての日本の企業には、終身雇用や一見無駄に見える社内コミュニケーションといった「冗長性」が存在した。それが企業にとっての「遊び」であり、社員の安心感の源泉だった。しかし、失われた30年の中で行われたのは、徹底的なコストカットとミクロな効率化である。人件費を削り、無駄を削ぎ落とした結果、企業はスリムになったが、社会全体としてはデフレと縮小スパイラルに陥った。ミクロの最適化がマクロの崩壊を招く「合成の誤謬」である。
冗長性は生物の本能に刻まれたシステム
生態学の世界には「働きアリの法則」という有名な話がある。集団のうち真面目に働くのは全体の8割で、残りの2割はいつ見てもサボっている。だが、その「怠けアリ」をすべて排除して100%働くアリだけにすると、何が起きるか。予期せぬ負荷がかかった際、集団全体が一気に全滅してしまうのだ。サボっている2割は無駄ではなく、システムが予期せぬ変化を生き残るためにあらかじめ組み込まれた「レジリエンス(余力)」だったのである。この法則は、東京大学の長谷川英介准教授らの研究によって裏付けられている。彼らの実験で明らかになったのは、働かない個体を除去した集団は一時的に生産性が上がるものの、環境変化に対する適応力が低下し、最終的な存続率が下がるという事実だ。
効率化を極限まで追求した社会は、この「2割の遊び」をコストとして削ぎ落としてしまう。
AIの進化もまた、この不可視の不便さを加速させるかもしれない。昔、企業のトイレの壁には泥臭い注意書きや手順書が貼られていた。あれは誰の目にも触れる「透明で開かれたインターフェース」だった。つまり、あの手順書は「情報の冗長性」の一形態であった。誰でも同じ知識にアクセスでき、誰でも全体像を把握できるという、見える化された「遊び」がそこにはあった。しかし情報がすべてAIの奥深くに集約され、ブラックボックス化していく未来では、「正しい問い(プロンプト)」を立てられる者だけが知識を引き出し、そうでない者は全体像すら見えなくなる。一見スマートで整った環境の裏で、人間側の自律性が少しずつ失われていく。
資本主義と生物の本能的冗長性の均衡点
私たちが目指すべき持続可能な社会とは、どのような姿なのだろうか。
極端な効率至上主義(新自由主義)はシステムを脆くし、かといって結果の平等だけを求める極端な社会主義は人間からモチベーションを奪う。生物が生存のために獲得したシステムに倣うならば、必要なのは「競争と適応の流動性」を保ちつつ、失敗しても生き直せる「分厚い安全網(冗長性)」を社会の底に敷いておくことだ。北欧の「高福祉・高流動性」モデルが示しているのは、手厚いセーフティネットという一見非効率な冗長性があって初めて、人間は恐れずに新しい環境へ挑戦(イノベーション)できるという真実である。デンマークの「フレクセキュリティ(flexicurity)」はその好例だ。解雇は比較的容易でありながら、失業しても再教育支援と手当が充実している。この「失敗を許容する仕組み」こそが、個人に挑戦の余白を与え、社会全体のイノベーションを加速する。
タイの熱気あふれる屋台の喧騒から、北欧の高度な社会システム、そして働きアリの生態まで――一見散らばって見える点と点は、「冗長性(遊び)こそが生命と社会の持続可能性を支えている」という一つの線で繋がっている。
完璧に整えられた無菌室のような社会は、一見便利で美しい。しかし、人間という「元来、非効率で曖昧な生き物」が伸びやかに生きていくために本当に必要なのは、街角に漂う屋台の湯気のような、少しの無駄と、ゆるやかな余白なのかもしれない。
この余白を取り戻すためには、どうすればよいだろう。個人にとっては、「完璧な自炊」にこだわらず、たまに外食や惣菜を買う「許容」を自分に与えることかもしれない。企業にとっては、「会議の無駄」を一律に削るのではなく、雑談から生まれる非効率な繋がりを意図的に保護区にすることだ。そして社会にとっては、路上の屋台や広場の喫煙所のような「不規則な遊び」を規制で絶やさず、失業しても再挑戦できる分厚いセーフティネットを拡充することである。非効率を選ぶことは、美徳ではなく、生存戦略なのだ。
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