死刑の執行現場には、複数の押しボタンが存在する。複数の執行官が同時にそれらのボタンを押すが、実際に刑を執行する電流が流れるのは、その中のひとつだけだ。どのボタンが「本物」で、誰の手が命を奪ったのかは、当人たちにも分からない仕組みになっている。
このシステムの目的は明白だ。「自分が人を殺した」という決定的な罪悪感や精神的負荷を分散し、匿名化することにある。個人を守るための、人道的な配慮と言えるだろう。
しかし、もしこの「誰も責任を負わないシステム」が、国家の舵取りや巨大な組織の意思決定の根底に組み込まれていたらどうなるだろうか。
欧米型の組織における意思決定は、この死刑ボタンとは対極にある。欧米では、たとえ部下がどれほど緻密な企画書や提案(レコメンデーション)を作成して上げてこようと、それを実行に移す瞬間、トップ(大統領やCEO)が自らのサインを刻んだ「指示書(Directive)」へと形を変える。
どんなに現場の発案であっても、サインをした瞬間に「これは私が命じたことだ」と100%上書きされる。失敗したときに「部下が言ってきたから」という言い訳は通用しない。株主訴訟や議会公聴会で問われるのは、サインをしたその人自身の責任であり、逃げ場のない「個人の責任(Accountability)」が最初から明確に定義されている。
一方で、日本の組織における「稟議(りんぎ)」や「合議」のシステムを眺めていると、まさに冒頭の「死刑ボタン」の光景が重なって見える。
下層の担当者が上層の「空気」や意向を察知し、注意深く言葉を選んで書類を書き起こす。その書類は課長、部長、役員と、階層を駆け上がりながら次々とスタンプリレーのように判子を集めていく。誰もが「下から上がってきた提案を確認しただけだ」と考え、誰もが「上が最終承認したのだから問題ない」と信じ込む。
決定の瞬間、そこには何十もの判子が並んでいる。だが、死刑のボタンと同じで、誰が本当の引き金を引いたのかは誰にも分からない。
この日本型構造がもたらす最大の恐ろしさは、「正気のブレーキ」が完全に破壊される点にある。
欧米のように「自分の名前で指示を出す」システムでは、個人的なリスクが強烈なブレーキとして機能する。「失敗したら自分が追放される」「歴史に悪名を残す」という恐怖があるからこそ、指導者は土壇場で思いとどまり、理性を働かせる。
ところが、死刑ボタンの仕組みの中にいる人間は、その恐怖から免責されている。「みんなで決めたこと」であり、「時代の空気」に従っただけだからだ。罪悪感もリスク感もゼロに希釈された空間では、個人の倫理観や合理性は麻痺してしまう。
結果として、正常な個人の感覚では「ありえない」としか思えない破滅的な選択が、驚くほどスムーズに、何一つ抵抗なく実行に移されることになる。
かつて、圧倒的な物量差を知りながらアメリカとの開戦へと突き進んだ国家の決断も、補給を無視して兵士を餓死させた作戦指導も、この「誰もボタンの責任を負わないシステム」の中で淡々と処理された。そして現代においても、組織的な不祥事やデータの改ざん、粉飾決算が長年放置され、土壇場まで止められない構造として、このシステムは生き続けている。
システムが破滅を引き起こしたとき、そこに残されるのは「誰が悪かったのか」という虚無的な問いだけだ。指導者たちは「自分も空気に従った被害者だ」と言い逃れ、最終的には「国民全体」「組織全体」という曖昧な概念に罪がすり替えられていく。
サインひとつで全責任を背負う欧米型の厳酷さを避け、私たちは「誰がボタンを押したか分からない仕組み」を優しさや調和の象徴として受け入れてきたのかもしれない。しかし、責任を空間の中に消し去るこの制度こそが、日本型組織に「ありえない暴走」を許し続ける、最も根深い病理なのである。
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