広島の平和記念公園にある慰霊碑に刻まれた一文、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」。 この言葉に対して、昔からどこか拭いきれない違和感や様々な憶測が投げかけられてきた。「原爆を投下したのはアメリカであるはずなのに、なぜ被害者である私たちが『過ちを繰り返さない』と誓わなければならないのか」と。 一般的に、この違和感を打ち消すために用意されてきた公式な説明は「主語は『全人類』である」というものだ。人類共通の過ちとして核兵器の惨禍を捉え、世界中の人々が平和を誓うのだ、と。 しかし、その「全人類」という綺麗事の主語をあてはめてみると、かえって言論の辻褄(つじつま)が合わなくなってしまう。 原爆投下の決断を下したアメリカ側の国家論理は、今なお「戦争を早期終結させ、自国兵士の命を救うための正当な選択だった」という立場を崩していない。彼らにとって、あの投下は「過ち」などではなく「正義」なのだ。当事者の一方が「過ち」と認識していない事象に対して、勝手に「全人類の過ち」と主語を膨らませたところで、それは実態を伴わない虚構の空想に過ぎない。 では、この碑文の主語を「日本人」と置いたらどうだろうか。 途端に、これまで不自然に歪んでいたすべての構造が、恐ろしいほどの精度でしっくりと噛み合い始める。 この言葉の真の主語が「日本人」であるならば、ここには戦前から現在に至るまでこの国を支配し続けている「無責任の体系」の凄惨なリアリティが浮かび上がる。 軍部や指導者層は、無謀な開戦から破滅的な作戦指導に至るまで、稟議と合議による「死刑の匿名ボタン」を押し続けた。しかし、敗戦という最悪の結末を迎えたとき、彼らは決して個人の加害責任を負うことはなかった。「一億総懺悔」という言葉のもと、責任の主語は「日本人という集団全体」へと空中分解させられたのだ。 そして、その主語が「日本人」として固定されたとき、恐ろしいすり替えが完成する。 死刑ボタンを押した当事者(指導者層)は「自分もまた日本人という集団の一員に過ぎない」として罪と負債を免責される。その一方で、決断の権利すら与えられず、ただ凄惨な原爆の犠牲となった広島の国民(被害者)が、日本人という全会一致の主語のもとに「私たちが愚かでした。二度と過ちは犯しません」と、加害者の代わりに反省の負債を丸抱えさせられているのだ。 「...
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