これはいったいどういうことだろうか?
毎年、夏の終戦記念日になると、歴代の首相が式辞の中で「深い反省」や「哀悼の意」を読み上げる。その言葉を聞くたびに、胸の奥に残る奇妙な違和感をぬぐい去ることができない。
そこに込められているのは、戦争を引き起こし、国家を破滅へと追いやった「当事者としての反省」ではない。どこか第三者的な「国民の代表としての謝罪」のように思えるのだ。「私たちもまた、あの悲惨な時代と空気に巻き込まれた被害者の一員であり、代表として追悼の意を表します」——そんな、責任の決定的な核心から一歩引いたニュアンスが垣間見える。
それもそのはずだ。彼らのロジックにおいて、戦争という無謀な選択を下した「決断の主体」は特定の政治家や将軍ではなく、「時代の空気」であり「国民全体」だからだ。
誰もが「自分は全体の決定に従ったパーツに過ぎない」と弁明できる「無責任の体系」。下からの忖度と上からの追認が重ね合わされ、誰が本当の引き金を引いたのか分からない「死刑の匿名ボタン」のようなシステムの中で、国家の舵は切られた。
主体が「国民全体」とされてしまっている以上、政府や指導者層が国民に向かって「私たちがあなた方を間違った判断で破滅させました」と真摯に謝罪する構造そのものが成立しない。だからこそ、謝罪文は「国民全員で被害と悲劇を悼む」という抽象的な慰霊へとすり替えられる。
そして、この「主語をすり替え、罪や負債を全体に薄めて押し付ける」という思考ロジックは、戦後も解体されることなく、形を変えて生き続けている。
その最たる証拠が、ニュースで当たり前のように語られる「国民1人あたりの借金〇〇万円」という言葉だ。
会計学や国際的な法常識から見れば、国債(国の借金)とは「政府が返済義務を負う負債」であり、それを買った国民は「債権者(資産を持っている側)」である。世界中を探しても、政府の財政運営の失敗を「国民の借金」とすり替えて広報する国など、存在しないらしい。他国から見れば滑稽とすら言えるこの言葉の発明は、まさにこの国独自の特異な精神構造を映し出している。
この異様な言語空間の中では、戦前とまったく同じ論理が働いている。
戦前、政府や軍部が犯した決断の失敗(敗戦)は、「一億総懺悔」という言葉によって「国民全体の責任」へとすり替えられた。 現代、政府や政治家が重ねてきた財政運営の失敗(負債)は、「国民1人あたりの借金」という言葉によって、再び「国民全体の負債」へとすり替えられている。
「決定の責任者は存在せず、結果の負債だけが末端(国民)に押し付けられる」という日本型組織の病理。私たちが夏ごとに耳にする首相の式辞も、日常的に目にする財務省の広報も、根本ではまったく同じ構造から生み出された双子なのだ。
国家の破滅という極限の状況においてすら、真の責任者を浮き彫りにできなかったこの国。戦前は「命と生活」という形で、現代は「税金と社会保障」という形で、誰もボタンを押さなかったはずのシステムが出した「請求書」を、私たちは今日も世界で唯一、疑いもせず払い続けている。
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