1633年、異端審問の法廷で地動説の撤回を命じられたガリレオ・ガリレイの姿は、人類の愚かさを象徴する痛烈な事件であった。客観的観察と数学的計算によって証明された「事実」が、天文学の解像度を持ち得ない聖職者たちのドグマと保身によって裁かれ、抹殺されかけたからである。
しかし、歴史の真のドラマはこの敗北の後に始まる。欧州は、この悲劇を単なる悲劇として終わらせなかった。彼らはガリレオの事件を通じて、人間の本性に関する悲劇的な真実に直面したのである。すなわち、「権力を持つ人間は、どれほど高潔であっても、自分たちの解像度を超える天才の成果を正しく評価できない」という真実である。
評価能力のない人間が人間を裁くとき、そこに生まれるのは嫉妬と防衛本能であり、異端という名の排除でしかない。ガリレオの敗北は、欧州に対し「人間(Person)の主観に評価を委ねるシステムそのものを解体せよ」という決定的な教訓を突きつけたのだった。
ここからわずか150年余りの間に、欧州は他文明に先駆けて「人間からの切り離し(モジュール化)」という大工事を推し進めていく。彼らが作り上げたのは、人間が賢くなることを目指す理想論ではなく、「人間がいかに無能で愚かであっても機能する客観的制度」であった。
第一に、「事実と権力の切り離し」である。ロンドン王立協会に代表される学会の誕生は、科学の正しさを決定する権限を、教皇や王という中央権力から剥ぎ取り、「同領域の専門家による相互検証(ピアレビュー)」という空間へ隔離した。
第二に、「成果と評価者の主観の切り離し」である。特許制度と近代資本主義の確立により、発明の価値は時の権力者や上司の顔色ではなく、「市場の経済価値」という客観的な指標によって自動算出されるようになった。どれほど扱いづらい異端児の発明であっても、市場で成果を出せば対価を得られるシステム(安全基地)が完成したのである。
そして第三に、「人間と職責の切り離し」である。後にテイラー主義やジョブディスクリプションへと結実する「役割の標準化」は、上司の個人的な好き嫌いや解像度の低さが部下の成果を握りつぶすエラーを構造的に無力化した。
ガリレオの悲劇から約150年後、英国で花開いた「産業革命」とは、単なる蒸気機関の発明ではない。「天才の閃きや成果が、無能な評価者の感情によって押し潰される摩擦抵抗を極限まで削ぎ落とした、自動累積システムの勝利」であった。
ジェームズ・ワットが蒸気機関を社会に実装できたのは、彼がガリレオのように権力と戦う必要がなく、特許という制度で守られ、資本家と契約を結び、客観的な市場で評価を受けることができたからに他ならない。
世界を制した欧州の覇権の正体とは、高度な道徳でも、個人の卓越した能力でもなかった。「人間は正しく他者を評価できない」という不都合な真実を直視し、感情や人間関係から制度を客観的に切り離した「モジュール化の思想」にあったのである。
ガリレオの囁いた「それでも地球は動いている」という言葉は、やがて個人が言葉を荒らげずとも、客観的な市場と制度が勝手にその正当性を証明してみせるという、現代世界のOSを創り出すための産声であったのだ。
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