制度の奥にある「哲学」への到達 私は最近、日本という国の異常性について考察していた。 以前から、この国のあらゆる機能不全や停滞の根底には「制度」の問題があるだろうというところまでは分かっていた。そして思考を深める中で、最終的に「制度を作るときの哲学」そのものに問題があるという境地へと行き着いた。 だが、そこからさらに一歩踏み込んだとき、膝を打つような決定的な洞察に思い至った。 「成長し続ける国々には、それぞれ異なるにせよ、制度の根底に『人間とは何か』という明確な定義(人間観)が存在し、それを基準に制度が構築されている」という事実だ。 1.「人間観」を基準とする制度設計——シンガポールと欧米 成長を維持し、システムを自律的に機能させている国々を見渡すと、そこには必ず「人間とはどのような存在か」というリアルな人間観が制度の設計図として敷かれている。 シンガポールの「性悪説」モデル: 日本人にも馴染みの深い「性悪説」をベースに制度が引かれている。人間は放っておけば自己保身に走り、腐敗し、目先の利益に目が眩む存在であるという冷徹な前提に立つ。だからこそ、公務員には民間以上の破格の超高額報酬を与えることで汚職のインセンティブを制度的に物理排斥し、同時に厳罰主義によってルールの遵守を強制する。人間の欲望を否定せず、欲望の配線を国益へと機械的に接続しているのだ。 欧米の「権利とインセンティブ」モデル: 近代哲学的(デカルト・ロック・ホッブズ的)な人間観に基づき、人間は「個人の利益と権利を追求する自律的な主体」として定義される。だからこそ、契約、法の支配、そして「客観的な成果に対する破格の報酬」というインセンティブ構造によって、個人の欲望をイノベーションと社会成長のエネルギーへと変換する。 翻って、日本はどうか。 日本の制度には、このような「人間とは何か」という客観的な人間観が存在しない。あるのは「人間は空気を読み、身内の道徳に従い、お互いに察し合って和を保つべきだ」という、甘えと情緒に満ちた無定義の共同体観だけである。 「人間」という素粒子をリアルに定義しないまま制度を作ったため、成果や契約という「客観」ではなく、忖度や前例、世間の目という「主観(空気)」でシステムが回るようになってしまったのだ。 2.国家公務員の給与と「失われた30年」の真の原因 私は「失われた30年」に対...
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